Special_feature特 集

クリエーターズインタビュー

人の心に届くビジュアルは、
すべてイラストレーションじゃないかな。
イラストレーター:宇野亜喜良さん

宇野亜喜良さんは戦後日本を代表するグラフィックデザイナーとして活躍をつづけ、その活動は現在もとどまることを知らない。2010年にはロックバンドBUCK-TICKのジャケット、日本経済新聞連載小説「韃靼の馬」への挿絵、舞台「星の王子さま」の脚色・美術に加え、愛知県刈谷市美術館で60年間にも渡る宇野作品を集約した「宇野亜喜良展」を開催。もはや、伝説、そして超人とも言えるイラストレーターの実像を探るべくアトリエ取材に行ってきました!

父の仕事場が最高に楽しかった。

パジコ:イラストレーター宇野亜喜良の原点は?

僕の父は室内装飾家で、その仕事の手伝いや、画材に触ることが楽しかったし、空き箱をもらうとなにを作ろうかと喜んじゃう子で。小学校3年頃からクレパスやクレヨンだけではなく、父の油絵具を使って「海の記念日」のポスターなんかを描いてた記憶があります。父が「絵は紙全部に描いていいんだよ」って言うから、僕はまず絵を描き、それからその上に油絵具で文字をのっけました。とにかく描くことが気持ちよくて。演劇関係は高校の頃の人形劇が最初かな。人形も自分で作ってました。

アトリエには画材と資料が手を伸ばせば届く場所に。

パジコ:少年時代をすごした戦中は美しい意匠のものが少なくなっていたと思いますが、宇野さんの美的センスはどこから?

美的なセンスって、社会的に俯瞰してものを見られる年頃にならないと持てないものですよね。疎開先から戻ってきた中学の頃、父が描いている文字が古い変な文字に見えてきたんです。装飾的でポイントが上の方にある「バランスの悪い文字だなあ」って。
当時は僕も内装の仕事を手伝って屋号のレタリングなどを手伝わされたりして、この頃は活字体のゴシックや明朝の方がきれいだと感じてた。でも、父のその書体はかつて流行ったアールデコの名残なんですよ。だから僕はいまもそういう時代の文字や古い漢字、草書が書けますし、時々作品の中にも書く。なんとなく崩し方や形を指が覚えてるんですね。

絵の中に書き込まれた宇野さんの字。
崩しがリズミカルできれい。

パジコ:グラフィックデザイナーの頃と現在の仕事への感覚の違いは?

若い頃は画家とイラストレーターは違う、と思っていました。企業メッセージや商品特性を解釈し、機能を最大限にビジュアライズするのがグラフィックデザインでのイラストレーションだと。でも何が広告に一番効果的かというと、画家や彫刻家の作品、カメラマンの映像などイラストレーションになりうる人材や素材はいろいろある。イラストレーターの分析や表現の能力、「これがわれわれの本質的な命題」だという思いも広告に不可欠かというと、本当はたいした問題じゃないんです。いまも「僕らしいものが必要」であれば描くけど、それは、僕の絵の中の個性やキャラクターが必要だっていうこと。だからイラストレーターだけで一途に生きるとかはどうでもいいし、翻って舞台の仕事や壁画を描くことすべてがイラストレーションだとも思える。機能と条件を考えて仕事をした、人の気持ちに入っていくビジュアルは、すべてイラストレーションだとも言えるんです。

カウンターの下の彫像はプルミエ製。野村直子さんとの合作で、実は口から煙が出る仕掛け。
提供:プロジェクトニクス

パジコ:そうしたニュートラルな姿勢が、舞台や広告など様々なジャンルとコラボすることでイラストレーションの場になっていった?

今のところ僕が考えるイラストレーションというコンセプトはほとんどの仕事にはめ込める感じがしますね。広告の時代もいまも、自分だけで完結するものではなく様々なジャンルと組みながら、何人かで作業することが好きです。僕は我というか、個人的な執着のあるテーマがないから、かえってそれが楽しい。

2010年10月に上演された「星の王子さま」。
舞台上の彫像などはすべて宇野さんと助手の野村直子さんの手によるもの。
提供:鹿野安司

宇野さんの『目』を感じさせる星の王子さま。
提供:プロジェクトニクス

パジコ:宇野さん独自のタッチや女性像はどこから?

女性像は様式にならないようにしようとしてるので、意識してない。絵画的な構成とかいうことでなく、情感の部分にどういうセンチメントをそこに込めるかということだと思うんです。でも、子ども時代に読んだ妹の少女雑誌の感化もあるし、そういうものに惹かれやすい性質はあると思うんですよね。でも、僕はたくさん男性も描いているんですよ。『SAMURAI AQUIRAX』(愛育社/2006年)っていう時代小説の挿絵の本でも男性の絵がほとんどだし。でも、この間の刈屋美術館のグッズ販売はほとんど女の子の作品ばかりが売れちゃう(笑)。

宇野さんの男性イラストは艶っぽさにうっとり。

パジコ:舞台などで一緒によくお仕事をされる野村直子さんが、宇野さんの女性造形は「子どもの頃から彼の目はカメラになっていて、アルレッティやバルドーのような映画の女優たちの強烈な、様々な目が宇野さんの脳裏で映像化されて具現されてるんじゃないか」とおっしゃってましたが。

「オルフェ」などの影響は大きいかな。終戦後初期に見た詩人コクトーの映画ですが、彼の発明した映像的表現が印象に残っていて、映像的に影響を受けたし、比喩的な表現も影響を受けた。 たとえば、死の国の連中が主人公の詩人オルフェを車に乗せて走るシーンで、窓の外の映像がすぎていくスクリーンプロセスという手法があって。途中まで普通のポジフィルムだったのに、踏み切りを越えると背景がネガフィルムに変わる。スクリーンプロセスはヒッチコックがよくやっているんですが、ネガをスクリーンプロセスに写したのはコクトーが最初で最後でしたね。でもそれは死の国に入っていく心象的な風景表現だったんですよね。

時代劇はタッチがハードに。
ああ、かっこいい。

「手」が描くことは時にテクノロジーを越える

パジコ:デジタルの時代になって、敢えて手を使って表現し続ける理由とは。

単純にいうとメカニズムに弱い(笑)。携帯も持たないのも、外でかかってきても楽しくないだろうから。表現面でいうと、発展的に新しくモノを生み出すときに、手かデジタルか、を検討する必要がない。案外、ぱっと描いていくスピードの方が速いような気がしますよね。結局、メカが発達してもプリミティブにやりたいことは構造的には同じだと思うんです。「キートンの探偵学入門」という映画では、ベッドの上で首吊り自殺をしようとした男が急に沈み込んだあと、砂漠に行ったり、役者が同じ位置にいてもどんどん背景が変化する視覚効果が使われている。これって、変わっていくセットの中で、ファインダーのどこに自分がいくかの完璧な映像の絵コンテができあがってないとできない映像なんですね。でも、キートンの頭の中にはそのメカニズムがあったからできた。結局、デジタルやアナログという方法論はさておき、頭の中にちゃんと映像ができあがっていないとなんにもできないんです。

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